めったにテレビを見ないのだけれど、ある日めずらしくテレビをつけたら、
ロシア人のデイトレーダーの特集がやっていた。
かれは部下とふたりで、パソコンの画面を見つめ、グラフの推移を見守っている。
あるところまで上がったタイミングで、かれが「一気に売れ!」という指示を出す。
かなりの金額だった思い出がある。
すると市場に不安がひろがり、急落がはじまる。
それをかれは鬼のような目でみて「まだだ・・・まだだ・・・いまだ買え!」と叫ぶ。
すると下がりどまり、そこからグラフがまたのぼる。
高い価値で売り、下落させ、下がったところでまた買うのだから利益がでるのだ。
商品は原油だったが、わずかな時間で億円の利益が出たとのこと。
かれはとても誇らしい顔で説明していた。
頭にまず浮かんだのは、父のことだった。
わたしの父は漁師で、15のときにサンマ漁船に乗り、
故郷からはるか離れた海のうえで、帰りたいと
毎日泣いたそうだ。
だが歯をくいしばってそこで耐え、中卒の自分の苦しさを味わわせまいと、
実家へ仕送りをし、弟妹たちは高校へいかせ、子だくさんの一家を支えた。
お涙を頂戴したいのではなく、どこにでもある昭和の話だ。
しかし父のような漁師がいまもたくさんいるからこそ、
そうして獲った魚が、わたしたちの食卓に並ぶ。
デイトレーダーを見ていて、なぜか父を冒涜(ぼうとく)された気がした。
はっきりいえば嫌悪感をもった。
「財政破綻でも起きて、おまえら農家と漁師に頭を下げればいいんだ」とまで思った気がする。
この感覚は、わたしだけでなく、おそらく日本人に共通しているのではないか。
金銭への潔癖さ。
勤労を尊ぶ国民性だ。
金というものは、いろいろな見方ができ、
さまざまな価値があり、
人を幸せにしたり、不幸にしたりする。
金についてだれもが一家言をもっているが、知れば知るほど、
その真核は、ぼやぼやしていて、だれもつかめない。
15の少年が泣きながら獲ったサンマと、
暖かいオフィスで、グラフを眺めて金を動かすそれは、
単純にくらべることはできない。
国のちがいも大きい。
「資本主義社会で、おれにはそれだけの力があるんだから、何の文句がある」といえば、そのとおりだ。
この世界はそうできているのだから罪悪感をおぼえる必要もないだろう。
だがそれでもわたしは思う。
「おなじ人間、そんなに差があっていいのか」
「金があるところに金が集まる、この事実を、
なんとかしなくていいのか」
価値観は変わる。
100年といわず、10年単位くらいでどんどん変わる。
いまはまだいい。
日本には、金をどれだけ稼ぐかが人生の大義だったバブル時代の、
残り香があるから。
あればあっただけいい。それが金だった。
うまいものを食い、いい家に住み、高級品で身の回りのものを揃えれば、
それが幸せだった時代。
だが、そろそろそれも変わりつつある。
「食うに困りたくはない。けれど金があっても幸せになれるとはかぎらない」
みなが気づきはじめてきている。
残業時間にメスがはいり、派遣法も変わってきている。
とくに残業時間は、いままでの常識がNOとされる気配が色濃い。
しかし、いつもの話だが、後ろ向きからは何も生まれない。
だからこう考えればよい。
いつの時代も変化しない企業、組織はつぶされる。
だから時代の先をいく。
売り上げもあがり、プライベートも充実する方法を探せばいいのだ。
でもその解決策は、決して外部からやってこない。
自分たちで汗水たらして、創りだすしかない。
だから自分たちで創りだそう。
今日のひと言
『勤労を尊び、自然を敬い、そのうえで豊かになる方法はかならずある』
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