『少年と怪物』
四月
「帰らぬ子2 〜桜の花びら〜」
海漁町を東西に横切る二本の道路のひとつ《海道》を、成子は堤防に沿って西へ歩いた。
1キロ程度を見晴らせる左右のどこにも、車は一台も通っていなかった。
天気はぐずつき、道路のアスファルトは汚い灰色で、風が湿っぽく、雨の匂いがした。
道沿いにつづく堤防には所々に切れ目があり、磯に降りられるようになっている。
網船漁港をすぎ、成子は《網船海中公園建設予定地》の切れ目を選んだ。
磯全体が見えるからだ。
見えないのは岩陰くらいのもので、なにより、なぜかここだという気がした。
しかし、しばらく探しても見当たらない。
昼時で、大人も、子どものひとりもいなかった。
潮風が冷たかった。春の気配はすれど、四月の海はまだ寒い。
(あの子、風邪でもひかなければいいけど)
気持ちがつのるごと、娘に対するいらだちもまた大きくなった。
成子はコートの前をかきよせ、展望岩へむかった。
展望岩の近くに、廃穴と呼ばれる子供の遊び場所がある。
足の立たない深さなので、おもに中学生や高校生の遊泳場になっている。
子供を育てる母の例にもれず、成子もまた土地の危険な場所を熟知していた。
展望岩に近づくにつれて、
(やっぱり坂本さんのお宅で、智子ちゃんとくだらないゲームでもしているのかもしれない)
そう思えてきた。
数年前にファミコンが発売されてから子どもたちはすっかりゲーム漬けだ。
男の子だけと思いきや、女の子も夢中になってやる。
あのペコペコするボタンを狂ったように連打する子どもを見ていて、不安を覚える母親はわたしだけではないはずだ。
頭も目も悪くなると、ニュースでやっていた。
起伏のある屏風岩をこえていくうちに、足を滑らせかけ、事故という二文字がふたたび頭をよぎった。
成子は違う種類の汗をかいたが、自分に言い聞かせた。
(なにもない。交通事故なら救急車かパトカーのサイレンが、この静かな田舎を切り裂いてたはず。いつものように叱って、江利が口を尖らせて、それで終わりだ。今日はこっぴどく叱ってやらなくちゃ)
海で溺れる可能性も低かった。
網船小学校では、水場の事故を防ぐために、水泳の授業がかなり厳しい。
江利にしても、東京にいた時に泳ぎは得意ではなかったが、三年が経ついま、百メートルくらいは平気で泳ぐようになっていた。
気がかりなのはこの肌寒さだが、子どもは心臓マヒになりにくいと何かで見た覚えがあった。
成子はくだんの現場に着いたとき、はじめ、だれかが赤いペンキの缶を落としたかのかと思った。
不自然に範囲が広かったからだ。
廃穴の手前の平らな岩場が、目の覚めるような赤黒さで一色だった。
岩の窪みにもペンキが溜まっている。
放射状に飛び散る形で、地面も岩壁も、自然のやわらかな色合いからそこだけ切り取られたようだった。
しゃがみこんでペンキを触ると、指先がぬるついた。
塗料ではなく血液だとわかると、息が苦しくなり、視界がぼやけ、足元が揺れた。
(離れよう)
(警察へ)
茫とした頭にそれら二つがうかぶ。
ここで何が起こったのか、見当もつかない。
急に身の危険を感じ、あたりを見回した。
しかし血だまり以外、変わったことは何もない。
(だめ、まだよ。あの子がいなかったことだけ確かめないと)
成子はもどりかけた足をとめると、ふっふっと鼻から短く息をはいた。
両足にわずかだが力がもどった。
パニックの水位が低くなった。
成子は血の水たまりをさけながら、廃穴へ近づいた。
血は無秩序に飛び散っていると見えたが、一本の太い血痕が廃穴へつづいている。
たくさんの血を流した何かは、どうやら廃穴へ落ちたらしい。
それがなんであれ、きっと死んでいるに違いないが。
頭を締めつけるような寒気い襲われ、鳥肌がたった。
廃穴の中の海水は、ほんのりと赤い気もしたが、錯覚かもしれなかった。
イソジンのうがい薬を連想し、しばらく使えなくなるだろう、そんなことを思った。
おそるおそる水面をのぞきこむ。
よく探したが、心底から恐れていたもの、死体はなく、成子は深く息をついた。
しかし、何かが三つばかり浮いていることに気づいた。
(……貝殻? いえ、桜の花びらかしら)
成子は膝をつくと、腕まくりをし、水の中に手を入れた。
同時に水音がし、成子は顔をあげた。
廃穴の中心、二十メートルほどさきの水面に魚が跳ねたような波紋ができている。
そのとき、手に何かがふれた。
成子は悲鳴をあげ、水から手をぬいた。
赤黒いなにかが、水の底へ潜っていく。
それは、蛇のようにくねりながら沈んでいき、かすんで、見えなくなった。
(……きっとうつぼね。気味が悪い感触だったわ。何にしても噛まれなくてよかったけど)
手の裏表をよく見たが、濡れているだけで傷は無かった。
成子はもう一度しゃがむと、水面をただよう桃色の小さなかけらをとり、手のひらにのせた。
(……なにかしら)
つまんで目に近づけると、海水のしたたるそれがなんだかわかった。
肉片のついた人間の爪だ。
「刑事 〜平和な町〜」へつづく
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