「序章 世界の終わりを願う少年」『少年と怪物』

『少年と怪物』
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少年と怪物

序章 

世界の終わりを願う少年


希望は夕べの星のように、空が暗いほど輝きを増す。

ウィンズロー


断じてこれをさば、鬼神もこれを避く。

いやしくも疑うところあらば、為さざるにしかず。

羽倉 簡堂はくら かんどう





【一九八九年三月二十八日 深夜 網船磯あみふないそ 少年】


 真夜中、少年は雨にうたれていた。

 大きな岩の上に立ちつくし、海を見るともなく見ていた。

 そうして三時間がすぎている。

 
 髪も服も濡れて、体に張りついている。

 海面は黒く、湖のように静かで、波だけがごく小さな音を立てている。

 ときおり、光の加減か、なにか大きなものが海の中で動いているように見えた。

 
 はるか遠くの、厚い雲の中で雷がひらめいた。遠すぎるのか、雷鳴は聞こえない。


photo by bobbycrim





(寒くなれ)

 
 少年はそれだけを考えていた。
 

 もっと、もっと寒くなれと。

 
 南房総は、暖かいとはいえ、春先の深夜はまだまだ寒い。

 雨が容赦なく体温を奪っていき、少年は激しく震えていた。

 だが寒さがひどくなるほど、嫌な考えが遠のく。


 だから、少年はもっと願った。

 つとめて身動きひとつせず、濡れそぼり、世界に立ち向かうように拳を握り、強固にその姿勢でいた。

photo by 준원 서

 
 

 自分でもなぜこんなことをしているの、かわからなかった。

 なにを憎んで、何に怒っているのか。

 
 わかっているのは自分がそう遠くない未来に、世界に打ちのめされることだった。

 
 そうして心の中の怪物に食われるのだろう。

 

 
 風向きが南に変わった。

 
 雨に濃厚な春の匂いが混じる。今日はもうこれ以上寒くならないとわかった。




「世界は」


 少年は、海にきてはじめて呟いた。


 感情の無い声だった。

  

 特大の雷で、洋上の空がすべて輝いた。

 腹の底を震わせる音が鳴った。

photo by FelixMittermeier





「世界はいつまでつづく」


 少年にこたえるものはなかった。


 つぶされそうになるほどの孤独。



 世界のすべてに生命がひとつも感じられず、ただひとつ自分の命だけが暗闇に光る。そんな夜の頂点だった。


 だがそれは少年の、ひと時の幻覚である。

 
 少年は、明け方までこうして立っていたことも多いが、見えないだけで世界は命であふれている。

 
 魚たちは岩の隙間で眠り、海藻が波の揺り籠にたゆたう。腐肉をあさる羽虫たちも、太陽が昇ればまた姿をあらわす。

 
 どうして自分だけがこれほど世界になじめないのか、少年には理由がわからなかった。


 
 静かな空間に、雑音が混じった。

 
 少年はこわばった首を向けた。

 

 岩の上で一匹の魚がのたうっている。

 
 いわしだ。

 
 魚は海へ戻ろうと必死に尻鰭しりびれで地面を打っている。溺れた人間のように、息をしようとえらをさかんに閉じたり開いたりしている。

photo by Hannibal Height




 少年は魚をじっと見つめた。 

 
 魚はすぐに弱っていき、動きが鈍くなっていった。



 少年はため息をつくと、魚のそばへ行き、膝をついた。

 
 傷つけぬよう、加減してつかむ。

 
 だが、ぬめる魚がパニックになったように暴れ、手をすり抜けてしまった。


 岩に落ちると、湿った嫌な音がした。

 

 少年は、汚れた魚を両手で押さえつけると、今度はしっかりと持った。

 そのまま岩場を移動して、波打ち際で、海へ魚を優しくもどした。

 

 少年にとっては、月の無い夜でも歩けるほど慣れた岩場だが、このあたりの磯は複雑にいりくんでいる。


 
 屏風岩びょうぶいわといって、国の保護地区に指定されており、衝立ついたのような形の、幅が広く、細長い岩が何層にも重なる特殊な地形だ。


 社会の授業で、少年は『東京湾の入り口だから第二次世界大戦のときに、日本海軍がたくさん基地を作った』と習った。

 

 だから(魚が迷ったのかもしれない)と、少年は細い目をさらに細めて考えた。

 
 ただ、いくらおかしくなっていたとしても、魚が陸にあがるなんて確実に死ぬことだ。

 

 おなじ水音がした。

 
 別の鰯が、岩の上へ飛びだしていた。

 のたうつ腹がぬめぬめと銀色に光る。

 

 水音がまた鳴った。

 

 次々に鳴った。

 

 魚が何十と水中から飛びだしてくる。

 
 少年の足元にも落ちた。

 
 あたり一面、沸騰したように海面が泡立っている。

 

 何百匹、何千匹という鰯の群れだ。

 

 魚たちは水面を舞い、海が煮立っているとでもいうように陸へと飛ぶ。

 
 魚たちは狂っていた。

 
 生きることのできない陸の世界へ身を投じてくる。

 
 少年は足首まで鰯に埋もれた。


photo by Ulrike Leone

 
 

 何層にも折り重なった魚の死骸。


 命が急速に消えていく。


 強烈な生臭さが漂った。

 

 そのとき、空気を切り裂いて、聞き覚えのない甲高い音が響いた。


 何百人もが金属のパイプを打ちあわせるような、不可解で巨大な音は、獣の雄叫びに聞こえた。

 

 少年は真っ暗な雨雲を見あげた。

 
 音がどこから聞こえたのか、判然はんぜんとしなかった。



 雨が、強さを増した。

 
 少年のもとめる寒さはいつまでも訪れなかった。



 だが、少年の願う世界の終わりは、誰にも知られずに進行していた。


序章 人の業」へつづく



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