少年と怪物
四月
初恋 〜運命の席替え〜
マウスをはじめ、児童たちは校長の言った《人食いザメ》について話したくてたまらなかった。
『ジョーズみたいなやつが泳いでるってよ! マジか!』
だが六年一組の教室にもどると、すでに新任の平石先生が教壇にいた。
隣のクラスから賑やかな話し声が聞こえ、六年一組の皆の喉は話したくてヒクヒクしたが、今日は半ドン(※午前中で学校が終わること)だ。
自由になるのはそう遠い先ではない。
間近で見る平石先生は三十歳前後で、短く刈った黒髪がよく似合っていた。
女児童の何人かが、はやくも熱のこもった目をしていて、だれかが「吉田栄作に似てる」と、コソコソ話す声がした。
「みなさん、はじめまして。あらためて自己紹介をします」
先生が黒板にチョークで大きく書いた。
平石一正
「ひらいしかずまさと読みます。このクラスには先生とおなじ名前の子がいるね」先生が手をはたいた。
ソフトボールクラブの伊藤和政に注目が集まり、照れ屋のかずがひきつった笑いを浮かべた。
「一生を正しく生きるという意味で、先生のお父さんがつけてくれました。みんなの名前にもきっと意味があるので、聞いてみてください」先生が歯並びのいい笑顔をみせた。
女子の何人かがヒャっと嬉しそうな声をあげた。
「小学校最後の年を、みなさんと一緒に勉強する事になりました。よろしくお願いします」
先生が深々とお辞儀をした。
子どもに頭を下げる先生など初めてだったから、児童たちはおおいに面くらったが「お願いします!」と声を合わせて、頭を下げた。
どんな先生なのか、しばらくのあいだみんなは、おっかなびっくり、先生のことをちらちらうかがった。
だが、春休みの宿題を提出したさいに、もちろん何人か宿題を忘れた者がいたわけだが、でも先生は「必ず一週間後までにやってくるように」と言っただけで、げんこつの一つもおとさなかった。
これで児童たちは胸をなでおろした。どうやらすごく優しい先生らしい。
新しいロッカーと下駄箱に名前シールを貼り終えると「では、いまから席替えをします」と、先生が言った。
児童たちはとたんに、真剣な顔になった。
好きなあの子と隣になれるか、これで決まるからだ。
席替えは一学期ごとにある。
だから今回は夏休みまでの三ヶ月のあいだの席だが、児童たちにとっては大問題だ。
マウスなど、何に願っているのか、額に両手を当てて目を閉じ、ブツブツと祈りを捧げていた。
インチョーは、めったに見ないその真剣な顔に、吹きだしかけた。
インチョーは、とくに好きな女の子もいなかったので、席替えに望むことといえば、メンバーのだれかと近くになれば、という事くらいだった。
まあ後は、一番前だとたまに先生のツバが飛んできて嫌だというくらい。
だが、インチョー以外の全員は、念力で巨大な石を浮かそうというばかりの熱い念波を発しており、教室の温度さえ、一、二度あがったように思えるくらいだった。
先生が紙の箱をふたつ用意した。
「男の子はこっちの箱、女の子はこっちの箱から、生まれ番号順で紙をひいてください。紙には座る席の番号が書いてあります」
児童たちがあらんかぎりの思いをこめてクジを引き、揃って紙を手の中に隠して席にもどっていく。
「それじゃあ移動しよう! 席が決まったら班を作って、班長さんを決めてください。班長がだれか先生に教えてください」
先生が次々に指示をだしはじめた。
「班長になった人は画用紙とマジックを取りにきてください。みんなで班の名前と目標を書いてもらいます。できあがった班の紹介は、教室のうしろに貼ります。じゃあ、移動!」
先生が手を打った。びっくりするほど大きな音だった。
移動が始まった。
インチョーは手の中の紙を見た。
《8》。
教室のど真ん中だ。
まあまあと言えた。
欲をいえばもうすこし後ろがよかったが、一番前よりマシだ。
インチョーは新しい席に防災頭巾を敷くと、上履き入れとリコーダーを机の脇にかけ、教科書とノートを机に入れた。
メンバーの位置を確認すると、マウスと長治は教室の左前だった。
ダイは右後方の一番奥。背が高すぎるから邪魔にならなくていい。
ハカセは右の一番前だった。
同じ班になり、マウスと長治が嬉しそうに話している。
メンバーがもっと固まれなかったのは残念だ。
でも全員が一緒のクラスになれただけでいい。良の奴もいない。
インチョー の右隣に、女の子がやってきた。
青のジーンズに白のトレーナーが視界のすみに入った。
「はじめまして。よろしくね」女の子が言った。
長治とマウスのじゃれあいをながめていたインチョーは、挨拶をかえそうと向きなおった。
だが『はじめまして、よろしく』どころか『やあ』さえ出ず、口はあいたままになった。
まず目に飛びこんできたのは、輪の輝きをもつ黒い髪だ。
窓からの太陽の光がそのままくっついてしまったように、髪のなかほどがキラキラとした輪っかになっていた。
つぎになめらかな肌に驚かされた。
まず思い浮かんだのは、花嫁が着る純白のドレスだ。
どこまでもすべらかで、なぜか内側から光っている感じだ。
そして最後に目。
冗談抜きでインチョーは、魂とでもいえばいいのか、自分の眼球が離れていき、眼球にくっついて顔面まで離れ、またそれにくっついて頭、ついには全身も、女の子の目の中に吸い寄せられていくように思った。
さらにインチョーは、なぜか、今の今まですべてわかっていたことが、突如として大混乱をきたし、自分が今どこにいて、何をしているのかさえわからない。
そのような、今まで一度も感じたことのない複雑な感情に、大いにとまどった。
またこうしたことのすべてが、一瞬で起きたので、(なんだこれは)とインチョーはただただ、焦るしかなかった。
それでもまだ変化は止まらなかった。
目が見えなくなったわけでもないのに、女の子だけしか見えなくなってくる。
あたりが明るいまま暗くなっていくようだった。
また、音もうまく聞こえない。
その静かで、ぼうっとした、ふわふわするような心地よい世界で、なぜか女の子だけが唯一の光とでもいうように、強烈に輝いている。
「……ねえ、わたしの顔に何かついてる?」
女の子が、形のいい眉を不機嫌そうにしかめた。
「初恋2 〜小町光〜」につづく
・目次 「六年生のあゆみ」