少年と怪物
四月
小学校4 〜長治〜
【四月七日 午前七時五十五分 体育館前 インチョー】
「なんだ? 怒ったのか? 何べんでも言ってやらあ。おめえは父無し子だからな、腐ったガキにならぁな。母ちゃん一人じゃ、こんな風になっちまうさ。いや、きっと母ちゃんも困ってんだろう。おめえみてえなこまっしゃくれたクソガキを食わしてかにゃならんのだからなあ。母ちゃん、何してんだっけか? そうか、体をひせぇでんのか? え? ほうかほうか。そりゃ父ちゃんがいねえんじゃ、おあつらえむきの商売ってわけだ。そいじゃてめえは売女の」
「だまれくそったれ」インチョーは言った。
外吉があっけにとられ、口を大きくひらいた。
「ね、年長者に向かってなんて口の」
インチョーはふたたび外吉の話をさえぎった。
「母さんは普通に働いてる。父さんが出ていったのにもきっと理由がある。用務員ていう仕事を差別する気もない。不機嫌なじじいの、不機嫌な八つ当たりを聞く気もないんだ。そのまま黙って、戻って、図書室のゴミ箱でも綺麗にしたらいい。あそこのゴミ箱はいつも片付けられてない」
今度はまわりの児童たちが、驚きのあまり口を開けた。
「はっ、こりゃ驚えた! ケツの青ぇしょんべん小僧が俺に説教か! 図書室のゴミ箱を掃除しろだ? てめえでやりやがれ!」
外吉が怒鳴った。
「くせえおめぇらが出す、くせえゴミを片付けてやってる俺にむかって説教だと? おかしくて泣けてくらあ! このクソいまいましい目立ちたがり屋の脳なしが! こりゃきついお仕置きが必要だな。うん、そうだ。それがええ。売女のクソ親にかわって、誰かがオメエの尻をうんと引っぱたいてやらにゃな」
外吉が箒を構えた。
いまや児童たちは、そのすべてが立ち止まり、固唾を飲んで様子を見ていた。
「やってみろよ」インチョーは言った。
外吉がバッターのようにフルスイングしようと、箒を肩にかついだ。
インチョーは重心を移し始め、徐々に上体を前に傾け、力を溜めていった。
煮えたぎるようなこの怒りをおもいきり叩きつけてやる。そう思った。
「おめえ、早死にするタイプだな」
外吉が冷たい笑みを浮かべた。
インチョーは無視した。外吉の動きに全神経を集中した。
「相原って女ガキがこないだくたばっただろう」
インチョーにしか聞こえないように外吉が声をひそめた。
「小せえ虫けらが一匹死んでよ、正直おりゃあ胸がスカッとしたぜ。誰だか知らねえが、やった奴は偉え。世界が自分のモンだと思い込んでるクソガキに、本当の世界ってものを教えてやったんだからな」
外吉がじりじりと間合いを詰めてくる。
「俺がそいつだとしたらよ、真っ先におめえみてえなのを殺すね。生きてくってのがどんなにつれぇ事かもわからねえくせに、ぬくぬくしてやがっからな。俺にはわかる。おめえみてえに楽ばっかりしてる奴が、次にぶっ殺されるんだ」
インチョーは、外吉が振りかぶる瞬間を狙っていた。
相手の体のど真ん中にぶつかってやればいい。
そうして、ぶつかった瞬間、足に力を込めて地面を蹴る。
頭、体、腕、足、すべての力を合わせれば大きな力になることをインチョーは体で知っていた。
マウスがいう『インチョーのもろあたり』だ。
前に上級生のいじめっ子たちをまとめて吹っ飛ばしたのもそれだった。
「泣きわめけ、ガキ」
外吉が大きく振りかぶった。
インチョーは体を沈めた。
瞬間、横から何者かがインチョーの腕を強く引っ張った。
外吉は大きく的を外し、地面を叩いてバランスを崩した。
インチョーは突然現れたその人物に、二の腕をなかば抱えられるようにして引きずられていった。有無を言わさぬものすごい力だった。
「おくれるよ、インチョー」
のんびりとした優しい声だった。
「長治、邪魔するなよ」
インチョーは外吉を振り返った。
外吉は仁王立ちになって睨んでいたが追ってこなかった。
「嫌なやつなんだから相手にしなきゃいいのに。怒ったらお腹が減るだけだよ」
長治がなおもしっかりとインチョーの腕を抱え、大股で歩きながら言った。
インチョーは長治の横顔をまじまじと見た。
長治はどこからどう見ても太っている。
ほっぺたは新鮮なトマトみたいにパンとしているし、腕はぶっといハムだ。胸も腹も足も、どこも丸々と太い。
もちろんこんな体型だから、みんなからどんくさいとみられていて、それはあたっているが、大人顔負けの力の持ち主だと、メンバーだけは知っていた。
「もう、手、離していい?」
長治がうえっと、おどけながら舌をだした。
「インチョーのこと嫌いじゃないけどさ、男同士で手をつなぐのって気持ち悪くない?」
インチョーは、もう大丈夫というようにうなずいた。
ほどくとき、たがいの道具入れが引っかかった。
「何があったの」
並んで歩く長治がきいた。長治の背はインチョーより頭一つ大きい。体重は倍もある。
「……いきなりからまれたんだ」
「ふーん」
インチョーが必要なことしか言わないことを知っている長治は、それ以上きいてこなかった。
「さっき家をでるとき、母さんが言ってたんだよ。『今日は始業式ね。帰ってきたら特別にホットドッグがあるわよ』って。だから僕言ったんだ。『僕が好きなのはアメリカンドッグ。ホットドッグと間違えないで』って」
食べているところを想像しているのか、長治が嬉しそうに手の甲で口元をふいた。
「そしたら母さんが『どう違うの?』って聞くから『からがいっぱいついてるのがアメリカンドッグ』って教えたんだ。そしたら母さんさ『殻? ああ、衣のこと。ねえあなた、私も衣をむいたらスマートになるかしら?』って父さんに言ったんだ。こうやって、手を腰と頭にあてて、うっふんて。それで父さん、なんて言ったと思う?」
インチョーは片眉をあげて先をうながした。
「父さんは『衣と母ちゃんは長ーい付き合いのお腹間だ。切っても切れないっ間柄ってな』って。そしたら母さんめちゃキレて、キャベツぶん投げてね。あはは」
長治のお母さんは長治と瓜二つで、さらに体重が倍はありそうな体をしている。
そしてマウスが七不思議の一つに入れるべきと主張するほど奇妙なことに、長治のお父さんはものすごくやせている。
「……長治」
「なに? やっぱりあんまり面白くない?」
「さっきは助かった。ありがとう」
インチョーはほほえんだ。
「あ、ようやく笑った。でもマウスみたいに面白く話すのってホント難しいなあ。あいつバカなのに、なんで話だけは面白いんだろう」
インチョーはわからないという風に、両肩をすくめた。
「みんな一緒のクラスになれるといいよねえ」
長治がのんびりと言った。
ふたりは昇降口で上履きに履きかえ、肩を並べて新しい教室に入った。
「小学校5 〜完璧なクラス〜」につづく
・目次 『六年生のあゆみ』