「新学期 〜うまい井戸水〜」 『少年と怪物』

井戸 画像 『少年と怪物』
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※表紙画像 mh-grafik

少年と怪物

四月

新学期 〜うまい井戸水〜


【四月七日 午前六時三十分 自宅 インチョー】

 そのミッキーマウスの目覚まし時計は、いつのまにかインチョーの部屋にあった。

 だれの部屋にもひとつは、それがいったいどこから、どういうわけでもってここにあるのか、わからない品があるものだが、インチョーにとっては、ミッキーマウスの時計がそれだった。
 無くなれば、気づかないかもしれないし、一生思い出すかもしれない、不思議ないわくをもつかもしれない品だ。


 午前六時三十分。

 三畳の、暗く、静かな部屋で目覚まし時計が鳴った。

ハローヽヽヽハヨーヽヽヽ
 記憶にある甲高い声とは違う、機械の割れた声でミッキーが言った。

 インチョーは布団の中から手を伸ばすと、ハローハヨーと喋りつづけるミッキーを止めた。

 ぺたんこの重い掛け布団をのけて、雨戸をあける。


 築数十年のカビくさい臭いがこもる部屋へ、まぶしい朝日と共に新鮮な空気が流れこんだ。
 インチョーは、冷たい空気を胸一杯に吸った。

 空は青一色で、晴天の下、緑につつまれた奥名山が堂々とそびえていた。

 裏庭から山のふもとまでなだらかな傾斜で、田んぼと畑が広がっている。
 見える家はひとつしかなく、それさえ五百メートル以上離れていた。

 夜の大合唱でも鳴き足りないかえるたちが、夜露よつゆに濡れる草むらで、静かに喉を鳴らしている。

 インチョーは、鳥の巣そっくりに、四方八方に跳ねた髪の毛をなでつけながら洗面所へいった。
 
 台所から、包丁がまな板にあたる小気味良い音が聞こえた。

 
 サビの浮いたステンレス製の洗面台で顔を洗う。
 春先の井戸水は、指が麻痺するほど冷たかった。
 手ですくい、喉を鳴らして飲んだ。
 冷たい水が食道の形をはっきりと伝えてきた。

 この井戸水は去年の夏、保健所の検査で、通常の五百倍にあたる大腸菌が検出された。

 インチョーの家の借家しゃくやだけでなく、米仲区の井戸すべてで見つかった。

(めずらしく不安になったダイが学校で「だいちょーきんて体に悪いのか」とハカセに聞いて、ハカセは「うん、腹がかなり痛くなる菌だよ」と言っていた)

井戸 画像

 
 検査のあと、保健所の職員が各家を訪れて、『田畑に使っている農薬が、大腸菌の繁殖の原因です』と説明してまわった。

 男性の職員は『農薬の使いすぎなんだから、あなたたちの責任です。こちらの責任ではない』と言いたげだった。
『体調が悪くなければ飲んでも平気です。町の水道に切り替えることをお勧めしますが』と言って、職員は帰っていった。


 インチョーは生まれてこのかた、このうまい水を飲んで、腹を壊したことはなかった。

 また、水道局から提供される浄水された町の水道にしたくとも、そもそも水道管がとおっていない。 

 海漁町かいりょうちょう網船あみふな四地区―角砂かくさご米仲こめなか網船あみふな赤浜あかはまでは、まだまだ井戸をつかう家ばかりで、住民は電動ポンプでそれを汲みあげて、生活用水にしていた。

 住民も、うようよといる大腸菌を心配するかといえば、まったく逆で、

『今のままなら、うめぇ水が無料タダでぉ、かかんのは電気代だけだぁで。あんで高ぇ金はらって、そっただもんつけて、毎月水の金なんて払わねばなんねんだ。バカでねえか』

と、みんなが口をそろえている。

 インチョーの母親も、検査結果の薄っぺらい紙を見るなり、

『こんなの、新しい税金をとりたい口実に決まってるわ』と丸めて捨ててしまった。


 水。人体にとって欠かせぬ物体。
 のちに、水インフラが井戸水であるということが、海漁町に悲惨と幸運を同時に招くことになった。

 悲惨は死という形で住民を襲い、幸運はインチョーらに、それヽヽの原因を突き止めさせた。

photo by Gerd Altmann


 インチョーはおろしたての白いタオルで顔と手を拭き、便所で小便をし、もう一度手を洗って、寝間着のまま居間へいった。


新学期2 〜書かれぬ作文〜」につづく


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