※表紙画像 Gerd Altmann
少年と怪物
四月
刑事2 〜爪〜
(高田のやろう、あとでしめてやらにゃ)本間警部補は思った。
通報内容がどのようなものであれ、通報者が興奮している場合、まず落ちつかせるのが定石だ。
気が動転している人間は、住所はおろか自分の名前すらでてこないこともある。
警察官は、事件の把握が遅れることを回避するために、つとめて冷静に話す必要がある。
しかし警察官になって三年目の、尻にまだ殻をつけたままらしい高田は、基本をすべて忘れたようだった。
本間は、電話のイロハと、新人計画書に書きつけた。
皆が向ける白い目に気づかず、高田はしきりに相づちをうち、メモをとっている。
「ええ! はい! 聞いてます! 相原さん! 奥さん! もっとゆっくり話せますか」
電話口の相手は相当あわてている様子で、高田は何度も聞き返している。
電話が終わると、高田がメモをじっと見つめた。
真剣な顔つきに、ひさしぶりに事件らしい事件の匂いがした。
漁船でも転覆したのかもしれない。
隣の庭のびわの枝が、ウチの庭まで伸びていると、近所同士で鉢植えを投げあったくらいでは、こんな顔はしない。
だが、三年もぬるま湯につかった若い新米刑事なら、ありえるかもと本間は思った。
「本間さん! ちょっとよろしいですか」
静かな署内に高田の声が響いた。
本間は椅子をきしませ、肥えた腹を抱えるようにして立ちあがった。
(大先輩を呼びつけた無礼も指導せにゃ)と思った。
睨みながら歩いていくと、高田は不安がこぼれそうな目をしていた。
「でかい声をだすな」
高田が喋りだす前に、本間は言った。
「あれじゃ、聞きだせるものも聞きだせねえだろう。猫が屋根にでも登って降りられなくなったか? 消防の管轄だって言ってやれ」
「なにか、その、海で、妙なものが見つかったみたいで」
「はっきり言え」
高田が手元のメモに目線を落とした。
「爪です」
本間は片眉をあげた。
「人間の爪です」
「あほう。聞かなくたってわからあ。猫の爪でだれが警察に電話するか。どこで見つかった。早く言え」
「網船区の磯です。通報者は相原成子、主婦です。発見も彼女です」高田がメモを見ながら言った。「あと、小学五年生の江利という娘さんが、出ていったきりと帰らないと」
「それで」
本間は拍子抜けし、手入れを怠った女性の腋毛のような、ちょろちょろ伸びる頭髪をなでた。
人間の爪、めずらしくはある。
だが、岩などでつっぱがして、そのまま置いていったと考えるのがすじだ。
「娘さんと喧嘩をしたそうなんですが、よくある反抗期かと思ったそうで。海に遊びにいく、いかないで揉めたそうなんです。それが昼になっても戻らないので探しにでたら、爪と血をみつけたと」
「血だと」本間は頭を撫でる手をとめた。
「はい、血です。爪がみつかったのは廃穴という、貯水池みたいな所らしいのですが、成子さんが言うには、その穴のあたりが、バケツで撒いたみたいに血でいっぱいだったと」
「ばかやろう! それを先に言え」本間はさえぎった。「現場が荒らされちまうだろ。この町の人間がどれほどそういう騒ぎに飢えてるか、知ってるだろう」
本間は言い捨てつつ、デスクにもどると、椅子にかけたコートをひっつかみ、駐車場へつながる通路へ急いだ。
(漁師が、カジキでも解体したか?)
そう思ったが、妙な胸騒ぎがした。
高田が慌てて追ってきた。
「刑事3 〜起こりえぬ現場〜」につづく
・目次 「六年生のあゆみ」