※表紙画像 Lynn Greyling
少年と怪物
四月
母 〜赤い湿疹〜
《同日 相原家 相原成子》
警察に通報したのに、不安はいっこうにおさまらなかった。それどころかますますひどくなっていった。
成子は居間の椅子に腰かけ、江利が五歳のときに、カレーを派手にこぼした壁の染みをじっと見つめながら、午後の出来事を思い返していた。
廃穴から夢中で走って家にもどり、警察へ電話を入れた。
血の気が引き、目眩がし、倒れないことが精一杯で、呂律が回らなかった。
うまく伝えられたかどうか、わからない。
電話口の刑事もずいぶん驚いていたように思う。
今頃になり、受話器を固く握りしめた指が痛んだ。
(あんなにたくさんの血。それにあの爪。触ってしまった)
目をつぶると、ピンク色の爪が鮮やかに思いだされ、成子はおぞけをふるった。
八度目になるが、立ち上がると洗面所にいき、手を洗った。何度も何度も石鹸でこする。
おなじく八度目になるが、帰ってきてから触った場所、ドアノブや受話器を消毒液をふくませた布巾ですべて拭った。
無論のことじっとただ待つことなどできなかった。
思いあたる同級生の家に、片端から電話をかけた。
坂上さんのお宅にはいなかった。
智子ちゃんはタチの悪い風邪で寝込んでいた。
山内さんのお宅では噂好きの奧さんの四方山話に付き合わされかけた。
たいそう評判の悪い竹原さんの家にまで電話したが、予想通り、子どもに関心がないようだった。
買い物の時間なので留守のお宅も多く、一巡してもまだ三時だった。
ふと、右手の甲に湿疹ができていることに気づいた。
ひどい火傷をしたように、赤い水泡がいくつも膨れている。
何かにかぶれたのだろうか。
もしかすると、あの爪を触ったからかもしれない。怖い病気になったのかもしれない。
成子はもう一度手を洗うと、痛くも痒くもなかったが、薬を塗った。
江利はまだ帰ってこない。
黒々とした予感が渦巻き、いたたまれなくなるほど罪悪感に苛まれた。
(あんなに冷たくしなければよかったのよ。もう少し別のやり方があったはずなのに)
四歳のときに、私の不注意でハサミを出しっぱなしにしてしまい、江利はそれで腿を三針縫った。
ほかにもあるが、もっともひどいのは二歳のときだ。
江利は椅子をもちだすと、コンロの上で火にかかっていたやかんを倒し、手のひらから腕にかけてひどい火傷をおってしまった。
あの子は目を離すとしょっちゅう怪我をする。だから親が常に注意していないといけない。
今回もそうした、節目の怪我のような気がした。
夕方までには必ず帰ってくるはずだった。
しかし春は、陽の落ちるのが早い。
心配でたまらなくなる。だが、うろたえすぎてもいけないと思った。
ときに大人は悠然と構えなくてはいけない。でないと子どもはつけあがるものだから。
成子はそう思い、些細な物音や気配がするたびに玄関へ向かうものの、普段どおり家事に忙しく立ち働いた。
パトカーのサイレンが続けざまに過ぎると、もう一度廃穴へ行こうという考えが首をもたげた。
だが電話口の警官は、後で事情を聞きにいくと言っていた。留守はまずい。
詳しい話はそのとき聞けばわかる。
夕方四時過ぎ、電話が鳴った。飛びつくようにとった。
「はい、相原です」叫ばずにいるのがやっとだった。
「相原さんのお宅でよろしいでしょうか」
知らない年配の男の声だった。
「成子さんですか」
「失礼ですが、どちら様でしょうか」
「申し遅れました。海漁署の本間と言います」
心臓がひとつ、音高く鳴った。
「母2 〜確認のため〜」につづく
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