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学校の問題集にはじまり、
おそらくは生きることの意味に集約されていき、
人間はあらゆるものにこたえを求めつづける。
人間という生き物が本来そなえている欲求なのだと思う。
知恵の輪があればはずしてみたくなるし、
クイズがあればこたえを知りたくなる。
好奇心がなければ、あらゆる動物の中で、
人間だけがここまで発展することはなかっただろう。
だが知的好奇心が、
宿主である人間を苦しめることがあることは、
ほとんど知られていない。
なぜその仕事をするのか、
しあわせとはなにか、
結婚したほうがいいのか、独身のほうがいいのか、
よき人生とはなにか。
こうしたものに対するこたえは、
人それぞれでまったくちがう。
にもかかわらず、
定義づけようとするこころみがやむことはないし、
また、わたしたち自身も、
なんとかしてこたえを見つけようとする。
たとえば仕事。
こうした言葉がある。
「額に汗して、一生懸命働くのが仕事」
そうすれば充実するし、
幸せであるというようなニュアンスを含んでいる。
ではそれが、
毎日10時間はたらいて、手取り10万円の仕事だったら?
わたしたちは1日のうちで、
わずかな時間しかデスクにつかないのに、
他人の何百倍も報酬を得ている人たちがいることを知っている。
それどころか労働せずとも、
大金持ちの人間がいることも。
それを知り、
なお仕事の充実は額に汗することだと、
言い切れるだろうか。
選ばれた人だから、
能力がちがうからと、心底から納得できるだろうか。
だれしもがわかっている。
世の中はひとつの言葉でくくれるほど、
単純ではない。
こうした気の利いたセリフもある。
「こたえは自分自身で、自分にあったものをみつければいいんだよ」
わたしに言わせれば、これはたいへん難しいことだ。
幸福とか正義とか、
百万人いれば百万通りもこたえがあるような難問に対し、
自分自身にあった答えを探せなんて、至難の業だ。
だから最近、わたしはこう思う。
世の中には、こたえを求めてはいけないものがあるのではないか。
こたえのないこともある、
それを知ることこそが重要なのではないか。
仕事の意義、しあわせ、人生等、前述したものはすべてそれだ。
それらには、こたえがないのではない。
あってはいけない。
こたえがあれば、当然そこには定型がある。
こたえがあるのであれば、
そこからはずれたものはすべて不正解になる。
仕事、人生、豊かさ、幸せなどには、こたえがないのではない。
こたえがあってはいけない。
だれかがこたえを見つけ、これを終わらせてはいけないのだ。
いつの間にか、わたしたちは、
すべてのことに、こたえがなくてはいけないと思い込んでいないだろうか。
すべてが明確でなくてはいけないと思い込んでいないだろうか。
そんな狭い視野の社会になっていないだろうか。
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