少年と怪物
四月
インチョーという名の少年 〜秘密基地〜
《四月二日 午前十時過ぎ 奥名山中腹付近 少年》
海漁町でもっとも高い奥名山、その山奥に歌声が響いている。
音程がひどく外れているうえ、自作の歌だった。
疲れた 眠いは ぜんぜんいらない
いつでも笑顔 いつでも元気
弱きに優しく 悪人くじく
頭が良くて 喧嘩が強い
そんな人が最高なのさ
負けられない
負けたくない
ぼくの町を
守るのさ
みんなの笑顔を
守りぬくのさ
木と木の間に張られたハンモックに、少年が寝転がって本を読んでいる。
歌いながら微笑んでいるのは、たまらない寝心地だからだった。
この少年が変わっていると、誰もがひと目で気づく点がふたつある。
ひとつめは手製のハンモックで、足をのせるロープや頭がおさまるくぼみまである。
作るのにずいぶん時間をかけたようで、毎日ファミコンで遊ぶのが流行りのこの頃で、少年の興味のむきが違うとわかる。
ふたつめは鳥だった。
少年の、笑うと線になる細い目の上の髪はひどい癖っ毛で、まるで鳥の巣のようだが、小さな野鳥が二羽、少年の頭の上のロープにとまって、これは巣に似ているが何なのかと言いたげに、近づいてはちょこちょこと少年の髪を突ついている。
しかし少年は、まったく気にしていなかった。
森を吹き抜ける空気特有の、樹木の香りと穏やかさを含んだ風が、少年の頬を撫でた。
昼の陽光は、密生した葉のあいだから細いすじとなって何本も降り注ぎ、あちこちに輝く水たまりを作っている。
山道からだいぶ離れた、このうず高く盛りあがった広場を少年は〔メイプル・ホワイト台地〕と名付けていた。
一本の山桜が台地の中心に伸びており、満開を迎え、淡い桃色の花びらを散らせていた。
コナン・ドイルの『ロストワールド』という小説の舞台では、いまだ巨大な恐竜が闊歩し、人食い人種が蠢く未開の絶境である台地だ。
ここも、危険こそ無いものの、木も草も、石や土までも、自然そのものの春の強い生命力にあふれている。
「インチョー! やっぱりここだったんだ!」
潮騒を思わせる、葉の擦れあう音を破り、早口な声が聞こえた。
二本の丸太のあいだに浅葱色のトタンをすえつけた秘密基地の門から、小さな男の子が走ってきた。
入り口の上に垂らしてある、柊の枝で作った六芒星の魔除けが揺れた。
すこし前から枯葉を踏むパリパリという音や小枝の折れる音を聞いていたので、インチョーは本から目を離さずに言った。
「どうしたマウス。またいつもの大変大変か?」
「そうなんだよ、大変なんだ! ぼくみんなに連絡したんだけどさ!」
マウスと呼ばれた小さな男の子が、かなりの早口でしゃべりだした。
「インチョーの家だけ電話してもでなかったからさ、図書室か秘密基地だろうってぼく思ったんだけど、ほら今は春休みだからさ、みんなはもう海岸へいったんだよ! インチョー、聞いてんの! 本なんか読んでる場合じゃないんだってば!」
インチョーはようやく、ちらっとマウスを見て、おやと思った。
マウスの短い髪が、葉っぱや砂にまみれている。
メンバーのだれよりもすばしこいマウスが罠にかかるのは、とてもめずらしいことだ。
「海岸? プール下か」
インチョーは『ウォーターシップダウンのうさぎたち』から目を離すと、頭を起こした。
ヘイズルたちとの手に汗握る大冒険は、今日はもう終わりのようだ。
「そうに決まってるだろ! 早くいこうって!」
インチョーはじっとマウスを《見》た。
いったい何をそんなにあわてているのか、理由を見抜こうとつとめた。
てっきり四㎞ほど先にある浜ん郷という本町の砂浜へ遊びにいく話だと思ったが、違うようだ。
プール下は、網船小学校からまっすぐ海へ降りた海岸のことで、廃穴や展望岩があり、目をつぶっても歩けるほど小さい頃から遊んでいる磯だ。
『物を言う時は良く考えるのよ。軽はずみに喋べってはいけないわ。時間がなければないほど時間をかけるべきよ』
母の教えが決まって、頭の中に打たれたくさびのように浮かんだ。
マウスの頭と肩の上の木の葉。服は綺麗だ。膝小僧も手も汚れていない。
崖の上の秘密基地へ来るにはふたつのルートがあって、近い道は罠だらけだ。
遠い道は、罠が無いが、幅が狭く、深い崖を飛び越え、急な斜面を二つ越えねばたどり着けない。
マウスが罠にかかるほど急ぐ何かが起きたんだと、インチョーはそう《見》た。
「ホントならぼくももう行ってるはずなんだけど、全員がそろわなきゃって思ったから呼びに来たんだ! ダイが電話で、俺が呼びに行くって言ったけど、山の中じゃぼくの方が速いしさ。大変なんだってば、インチョー! みんなもう着いてるよ! 死体だよ! 死体がみつかったんだ! それも子供の!」
「死体だって!」
のんびり屋と呼ばれるインチョーも、さすがにがばりと起きた。
「インチョーという名の少年2 〜マウスの大変話〜」につづく
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