※表紙画像 photo by saezaki
少年と怪物
序章
海漁町の自然
【翌三月二十九日】
一晩中降りつづいた菜種梅雨がやみ、夜が終わった。
空が黒から赤へ仄明るくなっていく。
地平線から太陽が丸い頭をのぞかせると、一すじの陽光が暗闇を射抜き、大地を端から順に照らしていった。
あまねくすべてが、温度の上昇をうけて目覚めていく。
南房総の海漁町では、人がいてもいなくても、億年の昔からの営みはなにも変わらない。
今日も数かぎりない植物が芽吹き、数多の生命が恵み深い一日を謳歌する。
まだ寒い春先にもかかわらず、一匹の気の早い雨蛙は、柔らかい草の下で冬眠から目覚める。
蛙はもぞもぞと土塊を押しのけて湿った地中から這いでると、ゆっくりと草にのぼり、水蒸気をたっぷりとふくんだ朝もやの中で、じっと止まる。
温度差でその体に水滴がついていく。
目の上で肥え太った輝く水滴を、蛙が長い舌ですばやく舐めとった。
水分をとりこむうちに白みがかった体が陽光で暖められ、鮮やかな緑色を帯びていく。
一本角をもつ紋白蝶の蛹は、夜半から入った羽化を終える。杉の梢の、枝分かれした袂で。
幼年期の硬い殻を苦労して稲妻型に破り、何時間もかけて翅を大きく広げ、新鮮な外界の空気で乾燥させる。
暖かな陽光を存分にうけると、窮屈に折り畳まれていた翅の、最後の一本の皺まで伸び、そよ風になびく。
一晩中すがたの見えなかった虫たちが何処からか現れて、暖かい空気のたまる野原を舞う。
多くの雀がわずかな風におおきくそよぐ竹の細い枝にとまって、せわしなく会話をしている。
そうして雀たちは、最初の一羽が飛び立つのを、いまかいまかと待っている。
朝の薄い靄のなかを、何艘もの漁船が短い煙突から黒い煙を吐きながら、沖合をはしっていく。
小さな釣り船もちらほらと浮かんでいる。
半農半漁の町民たちが、真っ青な空の下で釣り糸を垂らす。
南房総は花が有名で、それは海漁町もおなじである。
海から山にかけて一面の花畑が広がるが、花の季節は一月が最盛期である。
だから、三月終わりのいま、畑には何もない。
しかし朝餉の時間が終わると、農夫たちが姿を見せる。
彼らはせっせと働き、草とりや整地などの屈み仕事で固まった腰を伸ばし、陽射しを強めつつある太陽に目を細め、汗をぬぐう。
雑草を抜いては、燃えやすく乾燥させるために、広げて干していく。
連作障害を防ぐために、花畑では野菜が作られる。
この時期は菜花をはじめ、春野菜などだ。
畑にそれらが芽吹きはじめている。
千変万化する春の高い雲が、それらすべての上を、風に滑っていく。
昼が近づくと、地表がさらに暖められ、海上で上昇気流が発生する。
上空に昇っていった空気の空白を埋めようと、冷たい空気が動きだす。
それは甘い風である。
自然豊かで辺鄙なこの土地は、宮城県の松島や、静岡県の伊豆のように、海が山の近くまで攻めている狭い土地だ。
夏に向けて刻一刻と緑萌ゆる切りたった山々の王は〔奥名山〕。
その足元から二キロもない〔海漁町網船区〕で目立つのは、ひとつの小学校、ひとつの森、二本きりの道路だ。
あとは疎らな人家が立ち並び、路傍ではタンポポが黄色い花弁を揺らし、脇を土筆が飾るだけ。
〔網船小学校〕では、門前の桜の古木が例年よりも早く開花し、風が桃色の花びらを通学路にせっせと敷き詰めている。
〔角砂森〕では、虫も小動物も旺盛に動きまわり、花も木も草も子孫を残す準備をはじめた。
午後になると、空模様が変わった。
天の高みから、雨の最初のひと粒が、一匹の蟻の、黒く固い背に落ちた。
蟻たちは触角をめぐらせ、巣穴へ急いだ。
ともなって風がやみ、夕方には無風となった。
虫たちは雨を避け、暗くて居心地の良い土の中や葉の下にいき、動物たちも木のうろや掘った穴の中でゆったりと身を横たえた。
土地に降る無数の水滴は、やがて縒り集まり、流水となり、耕作の終わった段々畑の畝を削り、土と栄養を運び、用水路や川を流れ、また海へと還っていく。
雨雲の上で太陽が沈んでいき、灰色の空が黒みを増していく。
そうして、深い夜がまたやってくるのだった。
「断頭台と少女」へつづく
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