少年と怪物
四月
小学校3 〜父無し子〜
【四月七日 午前七時五十分 体育館前 インチョー】
用務員の外吉じいさんは、児童を目の敵にしている。
なぜかは、だれも知らない。
ちょっかいと言えばかわいいほどで、学校一の悪童である竹原良も顔負けの悪さだ。
いつも同じ、洗濯を一年もしていないような汚い灰色のつなぎを着た外吉は、しわくちゃの不機嫌な顔で子どもたちを睨み、怒鳴りつけ、泣かせてはあざ笑う。
髪の毛も髭も真っ白な外吉が、次のまとに声をかけた。
「仲良くお手てでもつないだらええじゃないか! ませガキどもが! おれが子供んときゃあ、おめえらみてえにぬくぬくしとらんで、鍬にぎって働えたもんよ! おいなに見てんだ、メガネザル。女の前で良え格好しいか」
三年生のメガネをかけた男の子が背中を丸めて逃げた。
一緒に隣を歩いていた女の子はもっと小さい。二年生だ。
「なっさけねえ。ヘニャちんやろうが」
外吉が下品に笑った。
「おらチビ、はやく彼氏を追っかけてやんな」
外吉が針のように尖った箒で、女の子の尻を突ついた。
女の子は泣きながら逃げていった。
新学期初日だが、児童たちは楽しく喋っていた口を閉じ、桜の花びらの散る中、じっと下を向いて外吉の前をやり過ごしていく。
(この人は、なぜくだらないことばかり言うんだろう)
そう思いながら、インチョーも下を向いて過ぎようとした。
竹箒が、胸の前にぬっと横につき出された。
インチョーは立ち止まった。
川の流れが大きな岩で脇へ流れるように、インチョーと外吉を児童たちが避けていく。
インチョーは顔を上げた。
外吉がにやにや笑っていた。
外吉は背が高い。
ダイより低いが、インチョーより高い(もっともダイが並外れて大きいせいだ)。
インチョーは外吉の目の奥に、見慣れない奇妙な光を見た。
何だろうと思ったが、それは一瞬で消えた。
「おう。ゆうとうせい」
遮断機のように箒を出したまま外吉が言った。
「なにか用ですか」
外吉であろうと丁寧な言葉遣いをした。そう育てられてきた。
「あいさつはどうした? え?」
「……おはようございます」インチョーは言った。
「なにか用ですか、と」
外吉が目を意地悪くすぼめた。
「ふん! なにか用でもなくちゃ、俺がオメエさんを止めたらいかんのかい。え?」
外吉が独り言のような調子でつづけた。
「近頃のガキゃあ、大人にたいして生意気な口を聞きゃあがる。今の教育ってやつぁ腐りきってやがるな。世の中いったいどうなっちまったってんだ? てめえみたいなクソガキが級長様たぁな。みんな脳みそが空っぽになっちまったんだな」
インチョーは何も言わなかった。ただいつものように《見》ていた。
この人が、本当はなにを言いたいのか。なにをしたいのか。
「なんだその目は? なんか文句あんのか?」
「……いいえ。ありません」
「気に入らねえ。まったく気に入らねえ。いかにも根性が座ってますってツラしやぁがってよ。先生方はオメエに甘えがな。どっこい俺ぁてめえらを長く見てっからな、てめえのひん曲がった根性なんかお見通しよ」
インチョーは無言で《見》続けた。
「なんとか言えや。このだんまり」
外吉が竹箒の先をインチョーの胸に押しあてた。
尖った枝の先は、服をやすやすと通り体を刺した。
だがインチョーは身動きしなかった。
やせ我慢だと思ったのだろう、外吉が歯を剥きだして笑った。
黄ばんだ歯は半分かた、欠けたり抜けたりしていて、きっとタバコの吸いすぎだとインチョーは思った。
外吉の目は充血していて、黒目も濁っていた。
何かの病気かもしれないと思った。
何にしても、ひどく嫌な光だった。
(ガキなんぞになめられてたまるか)
外吉の目は、はっきりと語っていた。
大人にこんな目を向けられたら、たいていの子どもはグウの音もでなくなる。
「おめえはいっつも黙ってやがるな。大人を馬鹿にしやぁがってんのか? 便所掃除とゴミ拾いなんぞしてるジジイとは、口もきけねえってか」
(自分が腹を立てていることを自分で言って、勝手に怒っていくタイプだ)とインチョーは思った。
登校中の児童たちは、ふたりを足早に避けていたが、外吉に追いかけられても逃げきれる距離までくるとと、立ち止まる者がではじめた。
かれらの会話が聞こえてくる。
——あー、外吉に捕まった。運悪い。
——十カウントだ。
——テンカウント? なにそれ。
——もう終わりってこと。
幼稚園から上がりたての一年生には、外吉の出迎えに面食らい、その場で失禁するものもいる。
だれか先生がくれば、外吉は太陽に当てられた日陰の虫みたいに素早く消えるのだが、先生方は校舎裏の駐車場から、直接職員室にいってしまう。
子どもたちは当然ながら両親へ、用務員がどんなに悪い奴か口々に言うのだが、一九八九年は、学校に口をだす親などいなかった。
保護者たちのあいだでは、少々偏屈なおじいさんと言った認識だった。
はじめインチョーは、無口のおかげで外吉にしつこくされたことはなかった。
だがインチョーのあだ名のとおり、万年委員長として、だんだんと学校の中で目立つようになると、外吉にからまれるようになった。
外吉じいさんは、目立つ者、人気のある者などを理由なく憎む。
世の中にはそういった人たちがいる。
(今日は特に虫の居所が悪いらしいぞ)
インチョーは思った。
「おい」
外吉が箒を、さらに強く押しつけてきた。
インチョーはおびえることなく、外吉の目をまっすぐ見続けた。
「返事くらいしやぁがれ! くそガキ!」
外吉が怒鳴った。
外吉は箒を両手で持ち直すと、まるでそれが槍であり、インチョーの腹を貫けと言わんばかりに押した。
インチョーは体の芯に力を込めて、踏ん張った。
きっと胸に、ポツポツしたアザが沢山できるだろう。血も出ているかもしれない。
でも、一歩もひきたくなかったし、苦しい顔など絶対に見せたくなかった。
外吉は口をゆがめて箒を押していたが、不意に笑いを浮かべると箒をおろした。
「おめえよ。そういや父ちゃんがいねえってな」
外吉がひげをなでた。
「……それがなんだ」
大人に対する言葉遣いではない、口をついた後に気づいた。
だが、かまわなかった。
(そのことは、おまえなんかが話していいことじゃないぞ)
(父さんのことは、母さんとも話さない特別なものだ)
頭の芯がカッと熱くなり、あたりの音すべてが遠のいていく。
いままで良く見えていた外吉のことが、わからなくなった。
なぜだろう、自分のことならバカにされても何も響かないのに、家族のことをバカにされると一瞬で怒りが噴きだした。
外吉がニヤリとし、訳を知っていると言わんばかりの顔で腕組みした。
「ははは! てめえは父無し子だもんなあ。ひん曲がったくそガキになるのも仕方ねえや」
・目次 「六年生のあゆみ」