少年と怪物
四月
小学校6 〜不穏な入学式〜
ところどころ床板が腐って黒ずんでいる廊下に、児童たちは並びはじめた。
「マウス、うるさい」
インチョーは列の先頭から、静かに言った。
大海蛇のどう捕まえるか、喋りちらしていたマウスが、もっと話をさせろよと言いたげに両手を広げた。
インチョーは無視した。
整列を待つあいだ、インチョーは中庭の池をながめた。
縦横五メートルほどで、真ん中には噴水のでる岩場がある。
色とりどりの鯉が、水面をゆっくりと泳いでいた。
見慣れた光景のはずだったが、何かが引っかかった。
何が変なのかと考えていると、
「今年は、赤ちゃんゴイがいないね。生まれなかったのかな」
いつの間にか隣にいたハカセが言った。
「毎年生まれすぎでよそに移すこともあるのにな」
インチョーは言った。
濁った水底から、一匹の稚魚が水面に浮いてきた。
「なんだ。ちゃんと生まれてー」ハカセが安心したように言ったときだった。
大きな鯉がたくさんむらがって、赤ちゃんゴイをひと呑みにしてしまった。
ハイエナの群れのようなたかり方だった。
ハカセがインチョーに、いまの見た? と目で問いかけてきた。
インチョーは、見た、でも意味がわからないという意味をこめて、首を振った。
ハカセは泡立つ水面をしばらく見ていた。どことなく怯えたような目だった。
五十メートル競争もできるような長い廊下に、四年生、五年生と全クラスが並び終えた。
「体育館へ移動」
インチョーは声をかけた。
動物の標本などがある薄暗い社会科資料室の横を通り、渡り廊下へ向かう。
廊下も床板も、渡り廊下の簀の子も、児童たちが踏むとけたたましい音をたてた。
鉄筋コンクリートの本校舎に入ると、足音が上靴のゴムが当たるペタペタという合奏に変わった。
合奏は特別学級、保健室、放送室、職員室、印刷室、校長室、家庭科室、用務員室と過ぎていった。
用務員室に外吉の姿は無かった。
体育館に入ると、新一年生の保護者が三十名ほど、後方でパイプ椅子に腰かけていた。
めかしこんだ保護者たちの手には、ここ数年で急に見るようになった使い捨てカメラが多くあった。
海漁町では、保護者たちの正装などめったに見ない。
親たちはみな、窮屈そうにしていた。
体育館の前方、舞台上にはハの字型に椅子が並べられ、来賓と先生方が座っていた。
緞帳が金色の紐で束ねられ、舞台の中央の演台では、ピンクのリボンを結んだマイクが、話し手を待っている。
それらの頭上に、
1989年度 入学式
と、大きな垂れ幕がかかっていた
式が厳かに始まった。
司会の増田ザアマス先生による開会の言葉、校長挨拶、町長はじめ複数の来賓の祝辞と何度も立ち上がっては礼をして、座る。
六年生にもなれば、これ以上つまらないものもないこの式にも慣れたが、この春、一年生になったばかりの児童は緊張し、落ち着きなく目を動かしていた。
「在校生迎歌! 在校生起立!」
ザアマスが叫ぶように言った。
二年生から六年生までが一斉に立ち上がり、一年生の方を向いた。
『朧月夜』
菜の花畠に 入り日薄れ
見渡す山の端 霞みふかし
春風そよふく 空を見れば
夕月かかりて にほひ淡し
里わの火影も 森の色も
田中の小路を たどる人も
蛙のなくねも かねの音も
さながら霞める 朧月夜
歌い終わると、台風のような強い風が吹いた。
窓の外を、桜の花びらが舞った。
「校歌斉唱!」
ザアマスがまた叫ぶように言い、在校生は校歌を斉唱した。
奥名山や網船磯など、網船区の豊かで素朴な自然が謳いあげられた。
保護者代表からの挨拶に続くと、
「まだやんのかよ」
うしろでダイが小さく言ったので、インチョーは振り返ってにらんだ。
ダイが、これくらい大目に見ろよという顔でおどけた。
自分だって、こんな小さなことで仲の良い友達をにらみたくはない。
でもこのクラス委員長という憎まれ役もあと少し、我慢だとインチョーは思った。
このあと教室に戻って席替え。そのあとは委員決めだ。
今年こそ違う役になれる。
「新任教師紹介!」ザアマスが言った。
髪をぴったりとなでつけたバーコード頭の校長が、ふたたび演台に立ち、マイクに口を寄せた。
「えー、本日から新しい先生がやってこられました。えー、この場をお借りしまして、簡単に紹介させていただこうと思います。えー平石先生です。六年一組の担任を担任していただきます。それでは平石先生、ひと言ご挨拶をどうぞ」
校長が言うと、先生方の席からスーツ姿の男性が立ち上がった。
男性は、歩き方が颯爽として、運動神経が良さそうだった。
「えー、皆様こんにちは。はじめまして、平石です。アメリカからきました」
少年がそのまま大人になったような顔立ちの先生がそう言い、児童たちは目を見開いて、顔を見合わせた。
このど田舎では、東京ですら大都会も大都会。それがアメリカだって?
「冗談です。赴任そうそうですが、六年生という責任のあるクラスを任され、緊張しています。精一杯頑張りますのでよろしくお願いします」
平石先生はまったく緊張していない様子で言った。
「先生審査員のオレから見て、まあ平均点かな」
マウスの声が後方から聞こえた。
そろそろ児童たちの足が我慢しがたい貧乏ゆすりをはじめ、口も勝手にひらきかけるなか、バーコード校長が三たび壇上にたった。
児童たちはあからさまに深いため息をつくはずが、今年だけは様子が違った。
全員が緊張した面持ちになり、保護者たちも顔を引き締めた。
校長も雰囲気を察し、笑みが消えた。
「えー、新学年を迎えたみなさん、新入生のみなさん、本当に今日はおめでとうございます。これで終わりたいのですが、しかしながらここで、大変残念なお知らせをしなければいけません」
校長はためらい、意を決したように口をひらいた。
「知っている方がほとんどだと思います。何と言っていいかわかりません。わたしもまだ整理がついていません……本日より、新しく五年生として元気に通うはずだった相原江利さんが、春休み中に亡くなるという大変痛ましいことが起こりました……言葉にできないほど残念でなりません。なぜこのような事が起きたのか、今も信じる事ができません……この場をお借りしまして江利さんのご冥福を祈り、黙祷を捧げたいと思います。みなさんご起立ください」
合図で、全員が頭を下げた。
強い風が橅の木を揺らし、窓ガラスを鳴らした。
皆が着席すると、校長が咳ばらいした。
「当初、学校と警察の間で、事件が解決するまで、休みの延長が検討されていました。あるいは集団下校や、教諭による登下校時の引率もです。しかし一昨日のことですが、当初考えられていた事件性のあるものではなく、事故のようなものであると海漁警察署から連絡がありました」
ざわめきが広がった。校長がハンカチで額の汗をぬぐった。
「その、表現するのが難しいのですが、警察はあらゆる可能性を考えて捜査をしていたそうで、その結果、動物による殺傷らしいと。じつは早くから海洋大学の先生や鴨川シーワールドからいわゆる動物の専門家たちを呼んで、事件解決にご協力をいただいていたとのことです。えーそれで、その結果によりますと、重ねて申し上げますが、江利さんの事件は人為的なものでなく、まず間違いなく動物による可能性が高いと、判明しました。ご遺体の……いや、失礼しました。江利さんの体に残っていた歯形から、大型の海の生物、つまりサメだろうと、こういうことなんだそうです」
「なにトンチンカンなこと言ってんだ。大海蛇に決まってる」
かなりはっきりとしたマウスの独り言が聞こえた。
「本当だとしてもまことに痛ましいですが、警察は以上の結果を踏まえて、地元の漁師と協力し、サメ狩りを予定しております。そこで学校側の対応としましては、普段どおりの開始とし、またプール開きなども例年とおなじく五月のゴールデンウィーク明けにおこないます」
ここで児童たちが夢に思ってもいないことが告げられた。
「ですが、海での遊びは、危険なサメの捕獲がすむまで、すべて禁止させていただきます。サメがいつ捕まるかわかりませんが、場合によっては今年いっぱい、海に行くのは禁止になるかもしれません。詳しい内容については子どもたちに連絡プリントを配ります。またこれは警察からの指示ですが、保護者様におかれましてはお子様をけっして海に行かせることのないよう、ご協力をお願いします。以上です」
校長の言葉遣いは保護者向けであって、小学生には難しい言葉もふくまれていたが、児童たちはたったひとつのことをたやすく理解した。
海で遊ぶな。わかったな?
素晴らしい遊び場がとりあげられたのだった。無期限で。
「小学校7 〜マウスの名推理〜」につづく
・目次「六年生のあゆみ」