『心を磨く』

「心を磨く」

物書きというやつは、あらゆる仕事のなかでも、
ありのままをさらけださぬことには、はじまらない。

きどって書けば鼻につき、嘘をえがけば上滑り、飾って書けば恥をかく。

文章というものは、どうしてもその人そのもの、
大げさにいえば魂が出てしまうのであって、
だからこそ魂そのものを磨かねば、人の心にとどく文章は書けない。

物書きになる道がたいへん険しいのは、じつは文章技術や、創造性や才能などではなく、
この点にあるとわたしは思っている。

こずるい人間、嘘をつく人間、敵意をもつ人間、器の小さい人間、浅知恵の人間、
すなわちひっくるめて、人に嫌われる人間は、
その魂が文章に出ているから、ひろく人に受け入れられないのだ。

かといって、真人間たれということではなく、おやっと目をひいたり、
この人は面白いと思わせるキャラクターであっても、それもまた広範に
うける要素になりうる。

だがふと思った。

程度の差こそあれ、
これは物書きだけでなく、全業種にいえることではないだろうか。

たとえばコンビニで、釣銭を投げるようにしてよこす店員がいる。

その反対で、店員がまるで召つかいであるかのように、ふるまう客がいる。

エスカレーターを駆け上がって(または駆け下りて)肩にぶつかっていく人がいる。

新幹線で、全開まで席を倒し、おもいきり足を広げる男がいる。

飲食店では、コーヒーをこぼす勢いでカップを置く無愛想な店員がおり、

昼の混雑時でも、周囲をいっさい見ることなく、四人席にひとりで座り、ノートパソコンをひろげ、イヤホンをつけているサラリーマンがいる。

十中十まで、おそらく彼らは、仕事場で低評価だ。

文章に魂がうつるように、所作にも人の格がでるものだからだ。

ある大手建設会社の標語で、
「目配り、気配り、心配り」というものがあるときいたが、
これは真実をついていると思う。

どれだけいい格好をしても、目配り、気配り、心配りのできない心の程度は、正直にあらわれる。

心は決してみえないが、心遣いは人の目にみえるからだ。

ひるがえって、我が身はどうだろうか。

よく内面を磨けているだろうか、それともまだまだだろうか。

人によって、自己評価はさまざまだろうけれど、
一定の期間ごとに、我が振る舞いと、それをさせている我が心を見つめなおす機会をもちたい。
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