『言葉に救われる』

【シン説】
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『言葉に救われる』

 

ある言葉に出会ったことがきっかけで、人生が変わったという話は多い。

 

わたしも例外でなく、いままでに幾度か、心に響く言葉にであっている。
忘れられないそのひとつを紹介したい。

 

『鈴木コーチ。わたしはね、疲れた、眠いは意地でも言わないの』

 

Tおばあさんとわたしが出会ったのは、わたしが25歳のときだった。

 

当時わたしはスポーツクラブにつとめており、
トレーナーとしてマシンを教えたり、プールでコーチをしていた。

 

(のち心臓病でひどい目にあうが、イベントでイアン・ソープと対決したり、
自分ではかなりイケてると思っていた時代だ)

 

 

Tおばあちゃんは、21時開始のクロール初級クラスにあらわれた。

 

21時のレッスンともなると、メンバーは4~5人ほどで、常連ばかり。

 

Tおばあちゃんは、足を片方ひきずりながらやってきた。

 

「お願いできますか」

 

「どうぞ」
わたしは愛想よくこたえた。

 

だが一瞬わたしは、
「足が悪いんだな。これは今日のメニューを変更しなければならない」
とかすかに思った。

 

案の定、Tおばあちゃんはバタ足もできず、それどころか浮くこともできない。
はやくいえばカナヅチというやつだった。
おばあちゃんはどうにかこうにか、水につかっているだけの状態。

 

いつものメンバーであれば、初級とはいえ25Mを何本か泳いでもらうのだが、
この日は消化不良に終わった。

 

常連さんが「ちょっと体が冷えたわね」と言いながら帰っていき、
くやしかったのを覚えている。

 

 

翌週、Tおばあちゃんはまた初級クラスにあらわれた。
てっきり先日でこりて、二度とあらわれまいと思っていたから、驚いた。

 

だが水泳は、根性でどうにかなるものではない。
先日のくりかえしで、レッスンは味気ないものに終わった。

 

 

Tおばあちゃんはそれから半年のあいだ、欠かさずにレッスンにきた。
半年ともなれば、さすがに上達するし、たがいにうちとけてくる。

 

バタ足はできないが、クロールはおおよそ手が8、足が2の比率ですすむ泳法だから、
じつは手のかきがうまければ、泳げる。

 

Tおばあちゃんも、両手と片足で10Mくらいは泳げるようになった。
御年83歳だったと記憶しているから、たいしたものだ。

 

Tおばあちゃんの根性はだれもが認めていた。
また品の良い方だったから、常連さんたちともすぐに仲良くなり、
「わたしは休んでるので、みなさんは先に泳いでいてくださいね」
などという調整もできるようになり、レッスンもうまく運ぶようになった。

 

 

毎月、毎月、Tおばあちゃんはやってきた。
プール会員さんの足が遠のく真冬でもやってきた。

 

まれに顔をみかけないと「なにかあったんじゃないだろうか」と
レッスンメンバーと一緒になって心配し、
翌週Tおばあちゃんがやってきて、風邪だとわかり、
ほっとすることもあった。

 

こうなると、わたしも熱が入る。

 

なぜかはわからないが、Tおばあちゃんはクロールで25M泳ぐことに、
なみなみならぬ熱意をかたむけている。

 

わたしも本気になった。

 

「Tさん、個人レッスンを受けませんか」と申しでた。

 

 

そしてついに、はじめての出会いから1年後、Tさんは25Mを泳ぎ切った。

 

泳ぐ速さは、幼児が歩くスピードである。

 

わたしはプールサイドを、歩きながらついていく。

 

「高齢者は必ず右、左、パッで呼吸してください」という
若造コーチの教えを忠実に守り、Tおばあちゃんは必死に手を回している。

 

残り5メートルで呼吸を失敗し、水をおもいきり飲んだのが見えた。

 

だが、Tおばあちゃんの手は、25M先の壁にタッチした。

 

わたしは思わずプールに飛び込んで、Tさんと手を握りあって喜んだ。

 

 

一度自信がつくと上達が早いのは、子どももお年寄りも変わらない。

 

Tさんはそれからメキメキ腕をあげ、
三か月もたたぬうちに10度も往復できるようになった。

 

Tおばあさんの口から、
「足の悪いわたしには歩くよりよほど楽。家までプールが続いていたらいいのに」
などという冗談まで出るようになった。

 

 

話はすこしそれるが、
当時、わたしの勤務時間は、月でまれに400時間をこえることもあり、
おおよそ300~350時間くらいが平均だった。

 

20代のなかばで体力に自信があったとはいえ、
ふとした拍子に、体力も気力も、疲れきってしまうときがあった。

 

 

そうした疲れがピークのときに、泳ぎ終わったTさんとなにげなく会話した。

 

「Tさん、いつもお元気ですね。
わたしは最近忙しくて、もう疲れちゃいましたよ。
Tさんの元気がうらやましいな」

 

Tさんがすこし考えてから言った。

 

「鈴木コーチね。わたしは疲れた、眠いは意地でも言わないの。
だって、言ったって誰にもどうにもできないし、
まわりに嫌な思いさせるだけでしょ」

 

いつもおだやかなTさんにしては、強い口調だった。

 

 

なにげないひと言だったかもしれない。

 

しかしわたしは、自分が、いつも自分のことしか見ていなかったと知った。

 

疲れた、眠いが口グセで、
暗い顔をしたり、せっぱつまった顔をしたりして、
まわりに気を遣わせていたこと。

 

自分だけが大変なんだと、自分だけが頑張っているんだと、
なんでみんな頑張らないんだと、なんでみんな助けてくれないんだと、
そう思いこんでいたことに気づかされた。

 

いまの自分であれば、
「助けてほしい? ばかやろう! そのまえにまずお前がだれかを助けたのかよ!」
とそう怒鳴りつけたくなるほど、自分は未熟だった。

 

Tおばあちゃんが、若いころ戦争で妹をなくし、それから必死の思いで、
旦那さんと洋服屋を建てたこと。
その旦那さんも、すでに亡くなっていること。
字が下手だと馬鹿にされて、書道の先生になったことなどを、そのときにはじめて知った。

 

 

「コーチに教えてもらうまでは、
まさか水泳の苦手なわたしが25メートルを泳げるようになるとは思っていなかったの。
でもね、なにがあっても、意地でもあきらめないって、
それがわたしのとりえなの」

 

Tさんの笑顔は、本当に素晴らしかった。

 

 

 

Tさんは気を遣って、あくまで自身の話におきかえてくれていたが、
わたしを叱ってくれていた。

 

 

その後、わたしは心臓病をわずらい、Tおばあちゃんとはよく挨拶もできないまま、別れてしまった。

 

 

いまご存命であれば、97歳。
おそらく、もう会えることはないだろう。

 

だがわたしは、あのときの顔と言葉を忘れない。

 

もしいま、Tさんと再会できたら、胸を張ってこう言いたい。

 

 

「Tさん、疲れた、眠いは意地でも言いませんでしたよ。えらいでしょう」
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